土星の環は誰が見つけたのか?土星の環の発見の歴史を解説

長い間 環(わ)のある惑星は土星だけだと考えられてきました。ところが20世紀後半になり観測機器が発達すると天王星・海王星・木星とガス惑星にはすべて環があることがわかってきました。輪は一枚の固体の板ではなく無数の小さな氷や岩石の小片でできていて、主星の周囲をそれぞれが公転しているのですがその密度分布は一様ではなく、あるところでは密集していて別の場所にはほとんど存在しないというような偏った分布をしています。遠くから眺めると環の中に密集している明るいところとほとんど物質がない暗いところがあるように見えます。土星の環は地表から小型望遠鏡でもその密度変化をとらえることができます。晴れた日に口径20cm以上の望遠鏡で200倍くらいの倍率を使って土星を見ると、A、B、Cの3つの環を見ることができます。それぞれの環の境目は空隙あるいは間隙とよばれる暗い部分です。

現在土星にはA~Gの7本の環があると考えられています。それぞれの環は誰が発見したのでしょうか? 理科年表にも書いてありません。このことについて調べていくうちに「環の発見者は決められていない」という結論に達しました。16世紀以後に新たに発見された天体はそれを誰が発見したかわかっています。ところが土星の環については発見者が曖昧なままになっていることがわかりました。また発見年代にも異説があることがわかりました。そこで土星の環に関する発見史をまとめてみました。発見年代に関してはいろいろな参考書やサイトを見ましたがはっきりしないので両方を書いています。

現在発見されている環を図にすると下のようになっています。

環の発見

1610年

土星に最初に望遠鏡を向けたのはイタリア人のガリレオ・ガリレイ(Galileo Galilei)でした。彼は自作の望遠鏡で土星を見て「土星には耳がある」と表現しました。さらに観察を続けると耳はだんだん縮小していき見えなくなってしまいました。これは地球の公転面と土星の赤道面が傾斜しているためで約15年ごとにおこります。ガリレオは同時期に木星の4大衛星を発見していたので、耳を衛星だと考え衛星が土星の前後に移動したのだと考えました。

ガリレオの望遠鏡は性能が低く 環を環としてをしっかり見分けることができませんでしたが、最初に環を見た人物であることからガリレオを環の発見者としている書物があります。

17世紀には多くの観測者が環のスケッチを残しています。リッチオーリやディビーニは洞察力があれば環であることがわかるようなスケッチを残しています。

Ⅰ.ガリレオ(1610)
Ⅱ.シャイナー(1614)
Ⅲ.リッチオーリ(1641,43)
Ⅳ~Ⅶ.ヘーベル
Ⅷ・Ⅸ.リッチーオーリ(1648~50)
Ⅹ.ディビーニ(1646~48)
ⅩⅠ.フォンタナ(1636)
ⅩⅡ.ガッサンディ(1638~39)
ⅩⅢ.フォンタナ他(1644~45)

1655年

オランダ人物理学者ホイヘンス(Christiaan Huygens)は、ガリレオが「耳」と称したものは環であることをついに発見したのです。今日ハインゲンス(ホイヘンスのドイツ読み)式とよばれる凸レンズ2枚をあわせた接眼レンズを発明し、焦点距離4mの当時としては画期的な光学系を手にした彼は同じ年に土星の衛星タイタンを発見し土星研究の第一人者となったのです。その後ホイヘンスはガリレオの時計を改良した振り子時計を発明し、1678年には光の波動説を唱え、1690年には「ホイヘンスの原理」を発表しました。

土星の環を発見したのはホイヘンスであるという説がもっとも有力でほぼ定説となっています。

カッシーニの空隙

1675年

イタリアからフランスに帰化したカッシーニ(Giovanni Domenico Cassini)は長焦点望遠鏡で土星を観測し、土星の環に暗い隙間があるのを発見しました。この部分をカッシーニの空隙といいます。カッシーニの空隙の発見により土星の環に構造があることがわかったのです。以来 カッシーニの空隙の外側のやや暗いほうをA環、内側の明るい方をB環というようになりました。なお空隙発見を1676年とする異説もありますが、これは残されたスケッチが1676年のものであることからきていて1675年が正しいと考えられます。

カッシーニは空隙以外にも4個の衛星を発見しています。また木星の自転周期測定やガリレオ衛星の運行表なども作成していますが、レーマーの光速測定実験を否定するなど保守的な観測家だったようです。

1785年

フランス人天体力学者ラプラス(Pierre Simon Marquis de Laplace)は土星の環が一枚板ではないことを予測しました。それまで土星の環は一枚板だと考えられていましたが、一定の角速度で回転する環は力学的に不安定であることを証明し、単一の幅の広い環のかわりに数多くの幅の狭い小リングでできているという考えを述べました。

1820年頃

ドイツの天文学者のエンケ(Johann Franz Encke)はA環の内部にもカッシーニの空隙と同様な暗い部分があることに気づきました。後にエンケの空隙を名付けられる暗い部分ですが、当初はその存在を疑問視する声も多くまた1本ではなく複数の空隙があるという報告もされるようになり、20世紀末のボイジャー探査機が環を近接撮影して環の構造が明らかになりました。

エンケの空隙については年代を確定することはできませんでしたが、エンケは1816年に25歳でゼーベルク天文台助手になり、1825年にはベルリン科学アカデミー教授・ベルリン天文台長として観測よりも力学計算や星図作成に没頭していたため、空隙の発見時期は1820年頃と推定されます。

C環の発見

1850年

アメリカ人のボンド親子(William Cranch Bond , George Phillips Bond)によってA環、B環の内側にC環が発見されました。

父親のW.C.ボンドは時計職人でアマチュア天文家でしたが、ハーバード大学にクロノメータを寄付しその後天文台長に就任しました。1843年の大彗星の興奮から当時最大の38cm屈折望遠鏡が天文台に寄付され、それを使って土星の研究をおこないました。G.P.ボンドはW.C.ボンドの三男で1848年に土星の衛星ハイペリオンを発見しました。そして父親と共同で土星のC環を発見しました。11月15日のことです。非常に淡く見にくいのですが、それ以前から ボンズ、タットル、ダヴェスといった人たちが存在を予想していました。

ところで、11月23日にはイギリスのW・ラッセル(Lassell, William) とドーズ(Dawes, Rev. William R.)がC環を独立発見しました。ボンド親子の発見を知らなかったラッセルはC環にクレープリング(ちりめん環あるいは紗環)と言う名を勝手に付けて発表したので、現在でもその名を使います。

更にC環を発見したのはガレ(Galle, Johann Gottfried)としている書物があります。ガレは海王星の発見で知られていますが、1838年に土星のC環を発見したと報告しています。ただしこの報告は1851年まで知られることがなかったのです。本当の発見者はガレであることは間違いありません。

1853年

マックスウェル(James Clerk Maxwell)はイギリスの物理学者で後に電磁気学のマックスウェル方程式(1864)をつくりあげた統一場理論の元祖のような人物ですが、学生時代に土星の環の研究をし環がラプラスの主張する小リングですらなく、無数の粒子の集合であることを予測しました。これには1859年という説もあります。このことは1895年キーラーによって観測的に確認されました。

マックスウェルの名前はB環とC環の境界をマックスウェルの空隙とよぶことで記念されて付けられています。

1957年

環の赤外線反射を調べたカイパー(Gerard Peter Kuiper)は波長1.5~2.0μm部分の強度は1.0~1.5μm部分の1/2~1/3であることを発見しました。これは岩石ではなく氷の反射スペクトルの特性なので、環を構成する物質は氷か雪に覆われた岩石ということになります。

カイパーはオランダ生まれですがアメリカに帰化し、天王星と海王星の衛星の発見者としても知られています。

D環の発見

1969年

フランスのピレネー山脈にあるピク・デュ・ミディ天文台のゲラン(Pierre Gurin))が10月28日に撮影した写真からC環の内側にさらにかすかなD環の存在が発見されました。このことが学界で発表されたのは1970年で、1970年が発見年とされている場合もあるようです。ただし当時はD環の存在を疑うような意見もあり、確かに存在すると確認されたのがボイジャー1号の写真なので、D環の発見者はゲランであるという確認はなされていないようです。写真は発見当時の写真でネガ・ポジ反転写真の矢印のところにD環が写っています。

このことは国立天文台(日本)に確認(2002.2.04)しましたが、D環の発見はボイジャーであるとの見解を得ました。しかし多くの書物にはD環の発見は1969年と載っていますので、一般的にはゲランが発見者と言っても問題なさそうです。環の発見者がはっきりしないという典型です。

惑星探査機によるE・F・G環発見

1979年

アメリカの惑星探査機パイオニア11号(Pioneer 11)は土星をフライバイしました。パイオニア11号はカメラを積んでいましたが故障?のため土星の写真を撮影しませんでした。しかし粒子密度や磁場の観測からA環の外側に別の環があるかもしれないと予想されるようなデータを得ました。

1981年

アメリカの惑星探査機ボイジャー1号と2号(Voyager 1 and Voyager 2)が土星に接近しました。このとき撮影された画像は驚異的なもので、それまでの土星のイメージを一新するようなものでした。A環からD環は連続した環ではなく細い同心円状の環が無数に集合した構造だということがわかりました。エンケの空隙どころか粒子と空隙の連続状態であったのです。またA環にはスポークと呼ばれる放射状の暗い構造があることも明らかになりました。

A環の外側には細くねじれているF環、さらに2年前のパイオニア11号が兆候を発見した環はG環と名付けられました。G環の外には外縁がはっきりしないE環も見つかりました。E環はすくなくとも土星半径の8倍程度まで存在するようです。

環は力学的には不安定ですが、環を構成する粒子が散逸しないようなメカニズムがあります。それは「羊飼い衛星」と呼ばれる存在で、引力によって環が壊れないように引き留めていることがわかっています。これは尽数関係(レゾナンス)の一種だと考えられています。具体的にはF環のすぐ内側にあるプロメテウス・アトラスとすぐ外を公転するパンドラはF環の崩壊をくい止めています。またエンケの空隙にはパーンが公転しており、粒子に影響を与えていると考えられています。

右はキーラーの空隙を移動するダフニス(Daphnis)です。周囲の環の縁だけ波打っていることがわかります。(カッシーニ撮影)

スポーク

スポークは不思議な存在です。ボイジャーが撮った写真をアニメーションにして再生するとスポークが回転していく様子がはっきりとわかります。しかし、環を作っているのは個々の粒子で一枚板ではありません。そしてケプラーの法則に支配されている粒子の運動は外側ほど遅く内側ほど速いので、たまたまスポーク構造があったとしても公転しているうちに平均化して無くなってしまうはずです。しかし現実に存在するのですから、スポークを維持するなにか力学的なメカニズムが存在するはずです。

ところで、スポークを最初に見たのはボイジャーではありません。1899年フランス人のアントニアジが25cm望遠鏡で描いたスケッチにスポークらしき放射状の影構造が描かれています。(図の右矢印部分) また1943年ピク・デュ・ミディ天文台のリオーのスケッチには環のなかの同心円構造がはっきり描かれています。(下のスケッチ)彼はこの細く細かい溝が時間的に変化することまで記録しています。

アントニアジは土星だけでなく火星でもリアルなスケッチを残しています。パリ郊外のムードン天文台の83cm望遠鏡で運河があるという先入観を持たずに描かれたスケッチは写真かと見まがうほどのものです。1930年に発表された「La Planete Mars」(火星)は火星表面地理学の集大成で、もう一般人が火星の研究に手出しする余地はなくなったという感を与えるもので、逆に火星熱が冷めた原因ともなりました。

カッシーニによる ヤヌス・エピメテウス環・パレネ環

2006年

2004年6月にNASAの探査機カッシーニ(Cassini)が土星に到着しました。12月には衛星タイタンに向けてホイヘンス(Huygens)というプローブを軟着陸させた後、土星の周回軌道に入り観測をおこなっています。カッシーニやホイヘンスはもちろん土星研究の先駆けである二人を記念して名付けられたものです。ちなみにガリレオは木星探査機の名前につけられました。

予想通り、多くの衛星と環が発見されました。2006年9月NASAは新たに2本の環を発見したと発表しました。F環の外側でG環の内側にヤヌス・エピメテウス環、E環の外側にパレネ環が発見されました。