青銅の作り方などに関するQ&A

Q:

なんで青銅器文明のほうが鉄器文明より先なの?

銅より鉄のほうが多く取れると思うのですが・・・

A:

1> 銅合金の方が融点が低いから
 前出のように、炭や、極端な話燃焼効率のいい木でも、溶かすことができた。
 鉄はさらに500℃以上上げなければ溶けない。
 炭とかなりの量の酸素を効率よく供給しなければこの温度に達しない。

2> 銅合金はそのままで製品化できたから
 溶けたものを固めた場合、銅合金は表面の酸化被膜ができる程度ですむ。
 鉄は炭素・酸素分を加熱途中で取り除かなければ、金属としては使い物にならない。
 これにはかなりの技術的な蓄積を必要とした。
 さらに、炭素の含有量を少なくとも0.5%単位でコントロールしないと思った性能の
 鉄あるいは鋼が得られないことは、これまた非常に高度な技術を要する。

大変なんだよ。鉄を精錬するのって...

Q:

古代の人々はどうやって青銅の作り方を発見したの?


A:

原料である銅鉱石の一つである孔雀石は派手な緑色で人目をひきやすいそうです。
なので銅の発見自体は比較的容易かと。

しかし最初に銅をどのようにして見つけたのか、どのように精製したのかについては、
こうだ、という説明はおそらくできない。何十万年の時の流れの中で、
露出した銅鉱石の上で火を炊いたりと言った試行錯誤の末に、その技術がゆっくりと確立したのだと考えられている。

銅は、赤い金属であり、粘っこい。粘っこいという意味は機械加工がわからない人には申し訳ないけれど説明しにくいな。
粘っこくて柔らかい。まあ比較的だが。
説けた銅に亜鉛(融点420℃だったっけ?)を25~28%加えてしっかりかき回して冷やすと黄銅ができる。
5円玉と思えば間違いない。これだけで強度は6割から8割上がり、丈夫になる。

銅にスズを4~8%加えると、一般に言う青銅になり、強度は2~2.8倍になる。10円玉の色が青銅だ。
「青」というのは緑青の色をさす。銅そのものでは、道具にも武器にも使いようがない。柔すぎる。

だれがこれを発見したかはわからない。でも、偶然と試行錯誤の積み重ねで、
それこそ気の遠くなるような時間をかけてこの技術(あるいは技能)は確立したとされている。

充分時間をかけ、好奇心と必要に迫られればどんな技術も生み出せる、ってことかな

Q:

古代ではどうやって金属を溶かしていたの?

銅の溶解温度は、1000℃ぐらいでしたよね。
普通の火じゃ無理だと思うのですか?


A:

融点についてはたしかに銅なら約1080℃。
この温度に上げるのは、不純物が少ない炭素、つまりしっかり作った木炭程度の燃料に充分な空気を吹き込むことで可能だ。
珪素分の多い充分に焼いた土器なら、その熱に耐える。

Q:

昔の青銅技術はどの程度なの?


A:

「周礼考工記」という書物があるらしいんですが(年代不詳、誰か教えて)、
それによると鼎の類は銅:錫比6:1(14wt%Sn)、矛の類が4:1(20wt%Sn)、
やじりの類が5:2(28.6wt%Sn)となっているそうで、なかなか合理的です。

Q:

青銅ってどんな色?


A:

日本人は古墳なんかから出る青緑色の銅鏡や銅剣のイメージが強いですが、
「青銅」というのは酸化皮膜である「緑青(ろくしょう)」の色から付いた名です。

アメリカなどではよく日焼けしたマッチョマンのことを「青銅のような色の~」といいます。
bronze(ブロンズ) ということばは「日に焼ける」意味もありますね。
向こうでは青銅=赤銅色、つまり10円玉の色であるとイメージされているんです。
これは覚えていて損は無いかと。

また古代の剣や鼎を復元するというプロジェクトをテレビ番組で見ましたが、
出来立ての青銅器は黄金に近い色です。
10円玉にタバスコかけてピカピカにすると納得できるかと
Q:

ヨーロッパ諸国では、歴史の授業はどのような内容で行われているんですか?
日本のように、自国の歴史と世界史に分けられているのですか?
はたまたヨーロッパ史のようなものがあるとか?
イギリス・フランス等だけでなく、スイスやポーランドとかについても知りたいです。

A:

イタリアでは電話を発明したのはイタリア(系アメリカ)人だと教えています。
歴史の授業なんてそんなもんでしょ。

Q:

地動説はコペルニクスが最初に唱えたの?


A:

地球の運動を前提に、天体の見かけの動きを説明するしようとする地動説は、
古くは古代ギリシャのフィロラウ(紀元前5世紀ころ)に始まり、アリスタルコス(紀元前310~230)などが、これを支持した。

これに対しアリストテレス(紀元前384~322)やプトレマイオス(紀元85~165)などが、
地球は宇宙の中で不動の中心の地位を占め、 太陽や月、惑星などの諸天体が地球のまわりを回っているとする天動説を主張して、
以後西洋ではキリスト教の教義として長くこれが信じられた。

しかし、天動説では惑星運動のずれを正確に説明することができず、ルネサンス期の1543年になってニコラス・コペルニクスが
『天体の回転について』という書物の中でふたたび地動説を説き、その後徐々に地動説が認められるようになったという歴史があるので、
コペルニクスが最初とは言えません。