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ベンジャミン・フランクリンの経歴プロフィールを紹介

ベンジャミン・フランクリン(Benjamin Franklin, 1706/1/17 ? 1790/4/17) 

アメリカ合衆国の政治家、外交官、著述家、物理学者、気象学者、凧を用いた実験で雷が電気であることを明らかし,米100ドル紙幣に肖像が描かれています。

 

父親は鍛冶屋で、1683年の後半に家族はイギリスからイギリス領アメリカマサチューセッツ州ボストン市に移住し、先妻はボストンで死去し、再婚しました。ベンジャミン・フランクリンは1706年にボストンのミルク・ストリートで生まれました。その時、父親はろうそく製造を行っていて、17人の子供をもうけ、ベンジャミンは末っ子でした。

10歳で学校教育を終え、1818年に『ニュー・イングランド・クーラント』紙を印刷出版していた兄のジェームズのところに弟子入りしました。その後、次第に記者や編集者として頭角を現し、同紙の自由主義的論調により兄が投獄されたときは、代わりに発行人となったこともあります。

1723年には兄と袂を分かち、フィラデルフィアにて印刷業を開業しました。、

1724年には知事の勧めによりイギリスのロンドンに印刷機器を買いに行き増したが、資金難に陥り、印刷工として働きながら印刷の仕事を覚えました。

1725年にはペンシルバニアに帰国、結婚します。

1726年にはフィラデルフィアに戻り小売業を始めます。

1727年には秘密結社の結成に参画しました。

1728年にはペンシルバニアで『ペンシルバニア・ガゼット』紙を買収。新聞を発行しました。

1731年にはフィラデルフィアにアメリカ初の本を貸し出すことが出来る図書館を設立しました。この図書館は成功を収め、これを模範にアメリカの他の都市にも同様な図書館が開設されるようになりました。

1732年にはドイツ語の新聞も発刊しました。また、自分の新聞で地域の問題(Poor Richard's Almanack) を取り上げ多くの賛同者を得ました。

1734年にはフィラデルフィアの秘密結社フリーメーソンの会長に選ばれました。

1736年火災保険会社を設立

1743年に電気に関する講演を聴いて、米国哲学協会の設立趣意書を提示しました。

1744年米国哲学協会の会合が開催されました。

1746年にはライデン瓶の実験を知り、電気に興味を持ち、電気の実験を自ら実施するようになりました。

1747年ペンシルバニアの軍備の必要性を主張し、それに漫画が使用されていて、最初の政治漫画でした。

1748年には研究を実施するために印刷工場を売り払い、得られた資金で電気の実験に打ち込みます。そして、電気にはプラスとマイナスがあるという仮説を提唱しました。一方、ペンシルバニア植民地議員や郵便総局長をつとめる等公職に専念するようになる。

1749年フィラデルフィア・アカデミー設立協会の会長になりました。

1751年にはフィラデルフィア・アカデミー(後のペンシルバニア大学)を開校。

1751年ペンシルバニアの公立の病院を作り、また郵便システムの改善にも貢献しました。

1752年には雷の中で糸にライデン瓶をつけて凧をあげ、わざと落雷させるという実験を行い、このライデン瓶を持ち帰って検査したところライデン瓶が帯電していたことから、雷が電気であることを証明しました。また、雷の電気はプラスとマイナスの両方の極性があることも確認しました。これらの電気の研究結果をまとめて王立協会に送り、論文発表し、この研究結果によってフランクリンはロンドン王立協会の会員になりました。

(この逸話はあまりにも有名になりましたが、非常に危険で同じような実験をしようとして命を落とした者が出ていますので、決してマネはしないようにしてください。)同じような実験をしようとして命を落とす者が出たため、現在はあまり紹介されなくなりました。

1752年北アメリカの郵政公社副総裁になりました。

1754年ペンシルバニア代表団の委員として植民地に関するアルバニー会議に出席まし、植民地連盟の計画を提案しました。また、この年に勃発したフレンチ・インディアン戦争ではイギリス軍のための軍需品調達に奔走しました。

1757年英国に植民地問題の改善を要求する運動を開始し、植民地の待遇改善を要求するためにイギリスに派遣されました。このとき、彼の科学的な業績を称えオックスフォード大学にて名誉学位を授与されています。

1758年には植民地問題を取り上げたりして政治的な活動もしました。

1760s植民地代理人に指名されました。

1771・1772自伝を書きました。

1775年独立宣言を作る大陸会議のペンシルバニア代表に選ばれています。郵政公社総裁に選ばれました。

1776年独立宣言を起草する5名の委員に選ばれました。12月には米国の独立に関する米国側の委員としてフランス法廷の会議に派遣されています。

1777年アメリカ独立宣言の起草委員となり、トーマス・ジェファーソンらと共に最初に署名した5人の政治家のうちの1人となりました。

1778年フランスとの軍事同盟に調印しました。

1778・1781英国との平和条約の締結に奔走しました。

1783・1784パリ条約の締結に奔走、1783年9月、パリ講和条約が調印(米国代表3名John Adams,B.Franklin,John jay)され、アメリカの独立は正式に認められました。

1785・1786ペンシルバニア行政委員会の委員長に選ばれる。

1787年米国憲法に著名しました。

1790年、84才で死去。葬儀は国葬とされました。

 

パリ講和条約が調印など、米国の独立という重要な時期に外交官として英国やフランスとの関係を調整した業績は多大で、 「すべてのヤンキーの父」と讃えられ、『フランクリン自伝』は世界中でベストセラーとなりました。

 

アメリカ独立戦争(1775-1783)について

 

1775年4月19日,ボストンのアメリカ駐留軍総司令官が派遣した武器押収のための部隊が植民地人と武力衝突を起こし,独立戦争が勃発した.

アメリカ人は大陸会議のもとに団結し,ジョージ・ワシントンを大陸軍総司令官に任命した.ワシントンはボストン包囲に着手し,1776年3月,イギリス軍はボストンを放棄した.

1776年7月4日,大陸会議の本会議は独立宣言を採択した.

しかし,ちょうどそのころ,ニューヨークにはイギリス軍の大艦隊が現われていた.アメリカ駐留軍総司令官となったハウ将軍指揮するイギリス軍はロングアイランドの戦いでワシントンを破ってマンハッタンに上陸した.ホワイトプレーンズの戦いでも敗れたワシントンはニュージャージーに逃走した.

1776年12月,ワシントンはトレントンでイギリスの部隊に奇襲攻撃をしかけ,起死回生の勝利をした.

1777年,イギリス軍はカナダ方面から部隊を南下させる壮大な作戦を実行に移したが,バーゴイン将軍麾下のイギリス軍は10月,サラトガ村でアメリカ軍に降伏することになった.その間,ハウの軍はアメリカの中心地フィラデルフィアを占領していたが,サラトガでの降伏で反乱の早期鎮圧はもはや不可能となった.

アメリカ軍の勇戦を見たフランスは1778年2月,アメリカと同盟し,イギリス軍はせっかく手にしたフィラデルフィアも放棄した.

1780年,アメリカ駐留軍総司令官を引き継いだクリントン将軍は南部に対する攻勢に出,チャールストン攻略に成功した.その後,イギリス軍は南部で優勢のうちに戦いを進めるが,コーンウォリス将軍が北上してヴァージニア方面に進軍すると,グリーン将軍麾下のアメリカ軍はたちまちにして南部における勢力を挽回した.

1781年,ワシントンはフランス軍と共同してイギリス軍の不意をついてヨークタウンのコーンウォリスを包囲することに成功.1781年10月,ヨークタウンのイギリス軍は降伏した.

イギリス側はなおもニューヨーク,チャールストン,サヴァンナを有していたものの,独立戦争はこれをもって事実上終結した.その後,イギリスとフランスの間で西インド諸島を中心にした戦闘が繰り広げられたが,1783年9月,パリ講和条約が調印され,アメリカの独立は正式に認められた.