理系の雑学・豆知識

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電気の歴史を作った偉人研究者27人


アルベルト・アインシュタイン

(Albert Einstein 1879/3/14~1955/4/18)

 1905年には1年間に4つの論文を発表しました。この年はアインシュタインの驚異の年として知られていて、そのいずれの論文も物理学を大きく展開させるきっかけとなったもので、まさしく20世紀の幕開けとなる偉大な業績だったからです。
彼が考え出した公式は沢山ありますが、有名なものは「E = mc2」エネルギーと質量の等価を示す式。「E = hν p = hν / c」光量子に関する式。「ΔE = hν-W」光電効果に関するアインシュタインの関係式があります。

 1905年に特殊相対性理論により運動に対する力学を作り、1915年-1916年には一般相対性理論により加速と重力を含んだ力学を作り上げ、それは運動の早さが光の速度に対して十分遅い場合は従来のニュートン力学をそのまま使えますが、運動の早さが光の速度の近づくと相対性理論によってしか説明できないことになります。

 この相対性理論と量子論を基礎にして宇宙の誕生、物質の根源に係わる課題に向かって現代物理学が新たな分野に向かって突き進むことになります。 

アリストテレス

(Aristotle 389-322 B.C.)
物質のもっている本性によって、軽い物体は上昇し、重い物体は下降する(落ちる)のだから、軽・重の程度によって落下速度が異なるという落体運動理論提唱しました。

  また、放物体については、投げられた時にその物体に“いきおい”が与えられ、これが空気の抵抗によって徐々に減ぜられて、無くなった時に落ちるという理論を提唱しました。

 彼は古代の学問の方法論を確立し、それを文書にしたことから「科学の祖」と呼ばれています。     

アンドレ・マリー・アンペール

(Andre Marie Ampere 1775/1/20-1836/6/10)

  エルステッドが、電流の流れている導線を磁針に近づけると、磁針がふれることを発見し、磁気と電気との関係を証明したことが1820年パリの科学アカデミーで報告されると、これに感銘を受け、すぐ実験を行いわずか二週間で実験に成功し、その結果を1820年科学アカデミーに報告したのです。

 この論文では二本の平行な導体の間で電流による磁気の作用を数学的に厳密に解析しています。

  この方法は電気の基本単位である電流の強さを定義する式としても有名です。
これらの研究業績を顕彰して電流の強さを測る単位を彼の名にちなんで(A ampere;アンペア)と呼ぶようになっています。     

トーマス・アルバ・エジソン

(Thomas Alva Edison 1847/2/11-1931/10/18)

  1876年には自分自身の研究所を設立し、高速で長距離に届き、電信を自動的に送ることのできる装置を開発しました。

 グラハム・ベルが電話を発明すると、カーボン粒子を利用した送話器を発明し電話の性能向上にも寄与しました。

 1877年には錫箔の円筒形のレコードを利用した蓄音機を発明しました。

 1879年白熱電球を発明し、直流発電機と電動機(モータ)を発明しました。

 1882年には、電球需要に対応するためにニューヨーク市に発電所を建設しましたが、その方式が直流であったことから、後にテスラやウエスチングハウス達の交流方式の敗れてしまいました。

 1888年には映画を発明、1913年にはトーキー(音の出る映画)を発明しました。

 その生涯においておよそ1300もの発明を行ったアメリカの大発明家であり、起業家でもありました。     

エルステッド

(Hans Christian Oersted 1777/8/14-1851/3/9)

 1820年に教室で電流の加熱作用についてのデモンストレーション(エルステッドの実験)を実施していたとき、たまたま近くに置いてあったコンパスが動くのに気づきました。

 ただちに、レポートを作り、ヨーロッパ中の科学者に配布しました。
電気と磁気の相互作用を最初に確認した重要なできごとで、当時かなりインパクトのある情報で、これに啓発されて電気の研究を開始した人が沢山いたようで、偉大な成果を上げたアンペールやファラデーもそうだったようです。

 かれの本職は流体の研究でしたが、1825年には純粋なアルミニュームの分離に最初に成功しています。     

ゲオルグ・ジーモン・オーム

(Georg Simon Ohm 1789/3/16-1854/7/6)

 1820年のエルステッドの電磁気現象の発見に関心を持ってガルバーニ電池の研究に着手し、熱伝導についてフーリエが提出した理論を応用して、温度の違いによって熱の伝導が起きることになぞらえ、電圧の違いによって電流が流れることや、長さや太さの違う針金の中を電流が伝わって行く様子を調べました。

 電流をアンペールの正確な測定法を用いて正確に測定することによって、電流の強さは針金の断面積に比例し、針金の長さに反比例する(オームの法則)ことを確かめました。

 さらにその針金の抵抗は"R=E÷I"で示せることを確認したのです。

 ここで"E"は起電力、"I"は電流の強さ、"R"は抵抗の大きさです。
彼が生涯切望していた大学教授職はミュンヒェン大学の招請教授に1849年に任命され、彼の死ぬ 5年前のことでした。

 現在「オームの法則」として知られるこの法則の発見によって、数学的解析法が電気現象に適用できるようになったのです。

 彼のこの業績ならびに他の業績を讃えて国際電気会議は1881年電気抵抗の標準単位を「オーム」と称することを決めたのでした。     

ルイジ・ガルヴァーニ

(Luigi Galvani 1737/9/9-1798/11/4)

 筋肉の刺激反応等を、蛙を使って研究していて、 脊髄と脚の神経を露出させた蛙を金属板の上にのせ、脊髄や神経を刺激すると蛙の脚は激しく痙攣しました。

 これを当時広く流布していた動物の神経には動物電気が流れているという説に対し、確かな証拠を得たと考え、この研究を公表したのですが、実は、湿った環境中における異種の金属の接触に於いて発生ずる連続電流を発見したのですが、誤った解釈をしてしまったのです。

 しかし、それは電気の急速な発展の幕開けになったのです。 正しい解釈は、彼の論文を読んだボルタによってなされ、それに基づいて最初の電池が発明され、安定な電源を入手できるようになって、電気に関する研究開発が急速に進むことになるのです。     

シャルル・クーロン

(Charles Augustin De Coulomb 1736/6/14-1806/8/23)

  1777年に細い絹糸のねじれを利用した、1/ 100,000 グラムの微少な力の変化を測定できる「ねじればかり」を発明し、このはかりを利用して、帯電した小球二個の間に働く引力や反撥力を測定しようと試みたのです。

 この装置を用いてクーロンは異なった強さに帯電させた小球の間に働く力を測定する実験を行い、クーロンの法則を確立しました。
また、磁力においてもこの法則が当てはまることを同様の実験で確かめています。

 このように、極めて精密な測定で電気・磁力の械的な力も重力の場合と同様の法則に従うことを実験的に証明し、その成果を1785年に「電気と磁気についての研究 」という論文にして発表したのです。

 後に、彼の業績を顕彰して、電荷の大きさの単位を(C:Coulombクーロン)にしています。     

ジェームス・プレスコット・ジュール

(James Prescott Joule 1818/11/24-1889/10/11)

 従来、電流が導線を流れると熱が発生することが知られていましたが、1840年21才の時、電流の大きさと、導体の電気抵抗の大きさと発生する熱の量との間に一定の関係があることを発見しました。

 更に重要なことは、例えば強い圧力をかけられた水や圧縮空気が細い管の中を通る時なども同様に熱が発生し、従って水や空気の運動が熱に変化し、力学的な仕事の量と発生する熱の量との関係を発見したのです。

 1849年にこの問題についての更に詳細な論文を発表しますが、これがW.トムソン(後のケルヴィン卿)の目にとまり、彼の支持で、学界に属していなかったジュールの法則は広く学界に認められることになったのでした。

 1852年以降はトムソンと共に研究を続け、気体膨張の際に温度が低下する現象を調べ、現在の私達が使っているクーラや冷蔵庫も彼の業績に基づいているのです。

 科学者として広く尊敬を受け、数々の学者としての栄誉も受けましたが、造り酒屋をやめることはせず、どこの大学にも属しませんでした。

 彼の業績を顕彰して、仕事の単位を(J ジュール Joule)と呼んでいます。     

デモクリスト

(Democritus約BC460-約BC370)
2400年前ギリシヤの哲学者デモクリスト(約BC460-約BC370)やエピクロス(BC342-BC271)たちは、物質はそれ以上細かく分割できない小片にたどり着くと考えていました。

 彼らはこの小片を分割不可能なものと言う意味でアトモスと名付け、これが原子(アトムatom)の由来です。

 アトモスの数は無数で、それらがいろいろな組み合わせで結合して多様な物質を作っていると考えていました。

 この世のものはすべて、多くのアトモスから出来ており、その間を空虚な空間すなわち真空が占めていると考えていました。

 アリストテレスは地上のあらゆる物は4つの元素(火、水、空気、土)から成るとする4元素説を唱え、星や太陽などの天界は空虚な空間を嫌いエーテルで満たされていると考えていました。     

JJ・トムソン

(Joseph John Thomson 1856/12/18- 1940./8/30)

 1884年には28歳でケンブリッジ大学の実験物理学のキャベンディッシュ研究所の3代目の所長に就任しました。

 1859年ブリュッカーが陰極線を発見していましたが、陰極線の本質は当時も明確でなかったことから、気体中の電気伝導の研究を開始しています。

 電磁波の実験で有名なヘルツは陰極線が金属箔を透過することや、電界による進行方向に変化のないことを確認したこと(実は真空度の不足によって正確な測定ができていなかったのですが)から、陰極線の波動説が有力になっていました。

 実験精度を向上させるための努力が積重ねられ、真空ポンプの発達、デュワーによる残留気体除去法の開発、タウンゼントの粒子の電荷の測定方法の開発、ウイルソンの霧箱の開発などの周辺技術に支えられ、1897年には電子の電界による進行方向の変化を定量的に確認(トムソンの実験)できるようになり、電子は水素原子の千分の1以下の質量を持ち、負に帯電していて、どんな物質からも出てくることを確認したのでした。

 これは従来原子は分割できないと考えられていたものが、電子は原子の構成要素であり、原子は分割されなければならないという認識が得られ、この新しい認識に基づいて、まったく新しい研究分野を切り開いていくことになり、ケンブリッジ大学のキャベンディッシュ研究所が19世紀の核物理学のメッカに発展するためのきっかけを作ったのでした。     

 1906年ノーベル賞を受賞しました。

ウィリアム・トムソン


イギリスの物理学者。古典的な熱力学の創始者の一人.
ケルヴィン卿(Lord Kelvin)の通称で知られ、絶対温度の単位「K: Kelvin」は彼の業績をたたえてつけられました。
1855年5月大西洋横断ケーブルの信号遅れ長さの2乗に比例して増加する(2乗法則)と王立協会に報告し、すぐ公開され、5月の王立協会では、ファラディーやウイリアム・トムソン等によって大西洋横断ケーブルの電気的特性が検討されました。
1859年12月英国政府は西洋横断海底ケーブルの失敗に対して調査委員会を設立し、その委員として参加しケーブルの電気的な特性について指導しました。
1865年66年の大西洋横断海底電信ケーブルの敷設にもケーブル敷設船に乗船し、海底ケーブル敷設上の技術的指導をして海底ケーブルを成功に導きました。

 大西洋横断海底ケーブルの成功では、トムソンの指導によって電気の基本である導体や絶縁に関する技術が確立されました。

マイケル・ファラデー

(Michael Faraday 1791/922-1867/8/25)

 王立研究所の助手となり、「ファラデーの法則」として知られる電気分解の法則を確立し、今日使用されている「electrolyte電解質」、「electrode電極」、「anode陽極」、「cathode陰極」、「ionイオン」などの用語は彼が作ったものです。

 電磁誘導現象を発見し、その応用として電線に電流を流すと電線が固定磁石のまわりを回転する装置(ファラデーのモータ)等を考案しています。

 さらに、光が磁場によって偏光されることを発見し、従来無関係と考えられていた電磁場と光は密接な関係にあることを実験的に証明もしました。
このように、電気と磁気は別ものと考えられていたのですが、互いに影響を及ぼしあう相互作用があることを明確にし、さらに光と磁気も相互に関係があることを示し、すぐれた直観力を持った偉大な実験科学者でしたが、実験結果を数学的に厳密に記述することにはあまり関心がありませんでした。

 静電容量の単位は彼の業績を称えて(F;farad ファラッド)を使用しています。     

ベンジャミン・フランクリン

(Benjamin Franklin, 1706/1/17 ? 1790/4/17)

 電気にの実験興味を持ち、事業の成功によって得られた資金で電気の実験に打ち込みます。そして、電気にはプラスとマイナスがあるという仮説を提唱しました。

 雷雨の中で糸にライデン瓶をつけて凧をあげ、わざと落雷させて、ライデン瓶を持ち帰って検査したところ帯電しており、雷が電気であることを証明し、雷の電気にもプラスとマイナスの両方があることも確認しました。

 (この逸話はあまりにも有名になりましたが、非常に危険な実験です。同じような実験をしようとして命を落とした者が出ていますので、決して「マネ」はしないようにしてください。)

 これらの電気の研究結果をまとめて王立協会に論文を発表したり、雷針を発明したりしています。     

アレクサンダー・グラハム・ベル

(Alexander Graham Bell 1847/3/3-1922/8/2)

  1873年にボストン大学の発声生理学の教授となり、 機械的に音声を再現することに興味を持ち始め、音の変化を電流の変化にして、またその逆を行うことが出来れば、電線を通じて電流を流せば、光の速度で会話を伝達できると考えたのです。

 1876年3月7日に特許が与えられ10日には、音声を送話器で電流に変え、その電流を受話器で音声にすることに初めて成功したのです。

 最初の電話による会話は、ベルが助手を呼ぶ「Mr. Watson, come here. I want you. ワトソン君ちょっと来てくれ」というものでした。

 1877年1月には日本人による会話も行われ、同年11月には日本に電話機が輸入されています。
1877年7月7日にはベル電話会社(Bell Telephone Company)を設立しますが、当時の情報伝達手段としては郵便による手紙が主体で、速さを売りにした電報(電信)がネットワークを作っていて、初期の電話のネットワークは限られた地域限定されていたことから、電信を頼むときに使用される程度と考えられていて、事業的にも経営は困難を極め、電話の特許を売却しようとしましたが、買い手が無かったという今では考えられないようなできごともありました。     

ヘンリー・キャヴェンディッシュ

(Henry Cavendish, 1731年10月10日 - 1810年2月24日)
王立協会のフィロソフィカル・マガジンに18の論文を発表したにすぎず、多くの未発表記録や原稿が残されました。
そのなかの一つにクーロンの法則、他の実験記録があり、死後70年ほどたった1879年に原稿を整理してマクスウェルが『ヘンリー・キャヴェンディシュ電気学論文集』として刊行しました。
1766年の実験記録に「水素」(On Factitious Airs 不自然な空気)を発見し、水素が「可燃性の気体」(inflammable air可燃性の空気)であり、燃焼によって水が出来ることを記録していました。このことは後に(Antoine Lavoisier)よって明らかにされました。
死後、キャヴェンディッシュを記念して、1871年、キャヴェンディッシュ研究所がケンブリッジ大学に作られた。

ハインリヒ・ルドルフ・ヘルツ

(Heinrich Rudolf Hertz 1857/2/22-1894/1/1)

 1885年にカールスルーエ工科大学へ移り、マクスウェルの電磁方程式の実証をすることを決心し、1888年には実証(ヘルツの実験)に成功しました。 この研究こそマクスウェルが理論的に予想した電磁波の存在と、マクスウェルが明らかにしていなかった、空中伝播を実験的に実証したものだったのでした。

 マックスウエルはすでにこの世を去り、あまり注目されていなかった彼の方程式でしたが、それが発表された1865年から4半世紀後に正しいことが確認され一躍注目を浴びることになりました。それが更なる大きな飛躍を生み出すことになります。後のアインシュタインよる相対性理論でマックスウエルの方程式の中に光速度不変の法則の大きなヒントが示されていたのです。

 1933年以降、彼の業績を顕彰し、SI単位系の周波数の単位を彼の名前にちなんで(Hz ヘルツ hertz)と定めました。     

アレッサンドロ・ボルタ

(Alessandro Volta11745/2/18-1827/3/5)    

 ガルヴァーニが切断した蛙の脚に、二つの異なった金属を同時に触れさせると痙攣することを発見し、痙攣を起すのは蛙の体には、電気ウナギと同じような電気があり、これが放電するためであると結論して、ガルヴァーニはこの現象を「動物電気」と呼んでいました。

 ボルタはこの現象に興味を持ちましたが、電気は蛙の脚に固有のものでなく、二種の異なった金属が蛙の体液によって接触して電気が生じるのだとし、蛙の痙攣はそれが検電器の役目をしたにすぎないものだと主張したのでした。

 1795年には銀と亜鉛の板を塩水に湿らせた紙の間にはさむと、二つの金属の間に電気が発生することを示して、二つの金属の板の対を多数積み重ねた「堆」(パイル)を作ることによって、更に強い電流を取り出すことに成功したのです。 これが、電堆すなわち最初の蓄電池の発明でした。 さらに彼はこの電堆に改良を加えて、いわゆる「ガルヴァーニ電池」を作りました。

 この発明は、いわゆる電気時代の始まりを告げた画期的な業績であり、電気の実験に必要な一定の電流を連続して取り出すことができる電源が使用できようになり、電気に関する各種の実験が可能にななったことは画期的なできごとで、電気・磁気理論の急速な発展と応用の拡大をもたらすことになり、翌年にはこの電池を使って電気の磁気作用が発見され、電気分解の手法が開発される等、この発明によって19世紀には新たな元素の発見が相次ぐことになり、その基礎作りに貢献することになりました。

 「V:ボルト(volt)」というのは電圧をあらわす単位ですが、これは彼の業績を顕彰して、彼の名前から付けたものです。     

ジェイムズ・クラーク・マクスウェル

(James Clerk Maxwell  1831/6/13-1879/11/5)

 1860年ロンドン大学キングスカレッジ教授に就任し、ファラデーの実験等を数学的に記述する研究を続け、その成果を総合し、電気と磁気を統一的に表す一連の方程式を導き1865年にはマクスウェルの方程式を発表しました。その方程式から電磁波の伝播する速度が光の速度に等しいことを証明し、光は電磁波の一種であることを理論的に証明しています。

  当時は彼の方程式を理解できる人も少なく、注目されることはありませんでしが、 彼の死後、1888年ヘルツによって電磁波の存在が実験的に証明され急に注目を集めることになりました。 さらにアインシュタインの光速不変の考え方はマックスウェルの方程式に含まれており、特殊相対性理論に基礎を与えることとなりました。

 1874年には後に核物理学のメッカとなるキャベンディッシュ研究所の初代所長に就任しています。     

グリエルモ・マルコーニ

(Guglielmo Marconi 1874/4/25-1937/7/20)

 電磁放射の現象について興味を持ち始め、1894年頃ヘルツの電磁実験のことを知り、これを利用して通信に使えないかと考えたのです。

 父親の田舎でヘルツの電波発生器を用いて、モールス信号を伝達する実験を行いました。

 実験は成功しましたがイタリアではこの新しい無線通信を実用化する企画に賛同してくれる人がいなく、イギリスへ渡り、無線通信のアイデアをイギリス参謀本部、海軍省、郵政省等に売り込むのに成功し、無線機の改良に努め、1899年3月、イギリスとフランスの間を結んで世界で初めての国際無線通信を行ったのです。 この成功でイギリス艦隊は各艦との連絡にマルコーニ無線機を使用し、その価値が認められました。

 ここから、無線通信の急速な発達が始まったのです。

 1909年にはノーベル物理学賞を受賞しています。      

サムエル・モールス

(Samuel Finley Breese Morse 1791/4・27-1872/4/2)
モールス符号の発明者。
1832年に電信を着想して実験を重ね、1837年に電磁石応用の電信機と初期のモールス符号を発明。さらに印字機、継電器などの改良も行い、1840年に特許が認められ、1844年にワシントン-ボルチモア間の電信に成功した。

アーネスト・ラザフォード

(Ernest Rutherford 1871/8/30-1937/10/19)

 電子を発見したJ.Jトムソンの指導を受け,放射性物質の研究に着手し、キュリー夫妻と共に放射線に2種類の区別があることを発見してα線、β線と命名しました。

 1900年には別の種類の放射線を発見し、それが電磁波であることを発見してγ線と名付けています。

 さらに、α線の粒子がヘリウム原子核であることの発見(ラザフォードの実験)や陽子の発見などを基にしてして原子の構造を決定しました。

 また、 α粒子を窒素の原子核に衝突させて陽子をたたき出すことに成功しており、それは陽子が1個のみの原子核、即ち、水素の原子核を作り出したことになり、古代から錬金術師達が抱き続けた夢(他の元素から金を作る)であった人工元素変換(ある元素から他の元素を作る)が単なる夢でなかったことを最初に証明したことになりました。

 1902年頃からソディと共に、ウランが放射線を出しつつ別の元素に変わっていくという現象から、放射線を放射しつつ壊れていく放射性壊変を確かめました。

 そして、それぞれの放射能量は時間と共に減少していきますが、半減する期間はそれぞれの種類毎に一定しており、これを半減期と名付けました。

 この分野で巨大な業績を残し、1909年には電子の発見で有名なトムソンの跡をついでキャヴェンディッシュ研究所の所長となり後輩の指導に当たり研究所を核物理学のメッカにし多数のノーベル賞受賞者を輩出しました。
1908年ノーベル化学賞を受賞しています。    

岡部金治郎

(1896/3/27-1984/4/8)

 電気・電子工学の研究者で多分割陽極マグネトロンの発明者。大阪帝国大学、近畿大学などで教授を歴任。文化勲章受賞。

朝永振一郎

(ともなが しんいちろう 1906/3/31~1979) 

 東京で生まれで、京都に移住し、第三高等学校の同級生である湯川秀樹とともに京都帝国大学理学部物理学科に入学し、卒業後は大学に残って理論物理学や量子物理学の研究をおこないました。

  1931年には理化学研究所の仁科芳雄研究室で中性子や陽電子、核力、宇宙線などの研究を手がけます。

 1937年には日独交換研究生としてドイツに留学し、ライプニッヒ大学でハイゼンベルクに師事して原子核理論の研究をおこないました。

 帰国後は場の量子論の相対論的定式化や超多時間理論の研究を進め、さらにくりこみ理論の展開をなしとげて1947年に発表しました。

 この業績によって1965年にノーベル物理学賞を受賞しました。

ニコラ・テスラ

(Nikola Tesla, 1856年7月10日- 1943年1月7日) 

交流電流、無線やラジコン、蛍光灯、空中放電実験で有名な発明家テスラコイルなどの多数の発明、The MKS unit of magnetic induction was adopted in honor of Tesla in 1956. 磁束密度の単位テスラにその名を残す。

1898年に計画を開始してから、J.Pモルガン(J.PMorgan)の協力を得て、1900年15万ドルの資金を集め、1901年にロングアイランド、ショアハムにワーデンクリフ塔(Wardenclyffe Tower )の無線送信用の塔の建設を開始し、1902年6月に研究所をワーデンクリフに移転し、1903年塔自体が完成に近づいたとき、欠陥が見つかり、設計変更に追い込まれました。そのために建設費が超過し、モルガンが資金を提供しましたが他の投資家は応じませんでした。1904年7月追加融資をしないことが決定され、モルガンが他の投資家にこのプロジェクトの推進に協力を要請し、1905年に5月にテスラの特許が終了して、特許権料の収入が減少し、財政的な危機に陥ってしまいました。
これに替わる新たな基金の募集が試みられましたが、資金は集まらず、この塔に設置するために作られた機器は競売にかけられました。 

この無線送信塔の高さは57m直径約21mで55トンの鋼材が使用されました。
アメリカ合衆国が第一次世界大戦参戦し、標的とされるとして1917年撤去されました。

1930年、エジソンとともにノーベル賞候補となるもこれを拒否。このためエジソンもノーベル賞を受けられなかった。

1943年1月7日、86歳でニューヨーク、マンハッタンのニューヨーカー・ホテルで死去。

八木秀次

(1886/1/28-1976/1/19)  
八木・宇田アンテナの共同発明者・教育者としてノーベル物理学賞を受賞者湯川秀樹知られている。工学博士。東北帝国大学工学部教授、大阪帝国大学理学部物理学科主任教授、東京工業大学学長、内閣技術院総裁、大阪帝国大学総長を歴任。日本学士院会。文化勲章受賞。

湯川秀樹

(ゆかわ・ひでき、1907/1/23- 1981/9/8) 

 東京生まれで、京都帝国大学の理学部で理論物理学を学びました。

 小さな原子核の中に核子を閉じこめておくものは何かをめぐって議論がされていて、1935年に核を狭い領域に閉じ込めているのは核子間において、ある粒子を交換するとそれによって核子を引き止める力(交換力)が生ずるとする考え方があり、それを前提として、中間子の存在を予見し、この中間子の質量は電子の200倍であろうと予見しました。

 この粒子はアンダーソンによって1936年に発見されましたが、いくつかの点で予言と一致せず、μ中間子と呼ばれるものでした。

 予言と一致する粒子は1947年にパウエルによって宇宙線の中で発見されました。

 この業績により、1949年のノーベル物理学賞を受賞し、日本ではじめてのノーベル賞受賞者となりました。