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八木・宇田アンテナの開発者、八木秀次のプロフィールと経歴

八木秀次は八木・宇田アンテナの共同発明者・教育者。工学博士。東北帝国大学工学部教授、大阪帝国大学理学部物理学科主任教授、東京工業大学学長、内閣技術院総裁、大阪帝国大学総長を歴任。日本学士院会。文化勲章受賞。

 

1886年1月28日 大阪府に生まれました。
1909年7月東京帝国大学工科大学電気工学科を卒業、仙台高等工業学校講師に就任します。
1910年に仙台高等工業学校電気科教授に就任します。
1913年にドイツに留学し、ドレスデン大学バルクハウゼン教授(Heinricti Barkhausen 超短波の研究者)に師事、resonant transformersの研究に従事、第1次世界大戦に伴いドイツを去りますが、このときの研究成果を1917年12月の「Proceedings of the Institute of Radio」誌に発表しています。ドイツから英国に移動し、2極管真空管の発明やマルコーニの顧問として有名なロンドン大学のフレミング教授(John A. Fleming)に師事しました。(当サイトでもフレミングの右手・左手の法則がしばしば登場します)
1916年米国に移動ハーバード大学で学び、同年帰国し、元の職場に復帰します。
1916年に単純な2極マグネトトロンはGE社の研究所でアルバート・ハル(Albert W. Hull)によって発明され、1921年に特許(1387985)が取得されます。
1919年には東北帝国大学工学部教授工学博士の学位を取得します。
1920年、バルクハウゼンとクルツが真空管で40cmの波長帯の発振に成功して以来マイクロ波の研究が次第に盛んになり、東北大学でもマグネトロンを導入し改良を重ねて、発生する電波の波長を12cmぐらいまで短くすることが出来ましたが、マイクロ波の特徴を生かした島相互間や船舶相間の短距離通信の必要性に注目し、波長40cmの電波を使って約1km離れたところに信号を送ることに成功しました。
1925年に仙台の財団法人斎藤報恩会から資金援助を得て電気工学科に研究プロジェクトチームが発足し、我が国で初めて、電気通信に関する研究が組織的に行われるようになりました。
1925年12月29日 八木アンテナの基礎理論を完成します。
1926年1月20日に八木アンテナの日本での特許(電波指向方式 第69115号 大正15年)、(可変指向性電波発生装置 第69252号 大正15年)を取得しました。
1926年の2月に八木と宇田は最初の報告書を公表します。
1926年7月28日に八木アンテナの英国特許(Variable Directional Electric Wave Generating Device)を申請、1927年7月28日に英国特許(263752)を取得しました。
1926年9月3日に八木アンテナの米国特許(Directive-Projecting System of Electric Waves)を申請、1930年1月28日に米国特許(1745342)を取得しました。
1926年9月3日に八木アンテナの米国特許(Variable Directional Electric Wave Generating Device)を申請、1932年5月24日に米国特許(1860123)を取得しました。
1928年に岡部金治郎が分割陽極マグネトロンを発明します。(岡部金次郎は八木の門下生の一人です)
1928年の夏に米国を訪問しIRE(アメリカ無線技術者協会)等で日本の短波研究の状況について講演しています。これに刺激を受けたGE社はマグネトロンの研究を強力に推進します。
1929年に岡部の分割陽極マグネトロンと八木・宇田アンテナを組み合わせて通信装置を作り、仙台と大鷹森の間約20kmの通信に成功し、1930年にベルギーで開催された万国博覧会に出品されました。
1930年には東北大学は坂田-飛島間(40km)の無線電話に成功しています。
1933年に長岡半太郎の要請で、大阪帝国大学理学部物理学科主任教授(兼任)大阪帝大刻大学では菊池正士教授に原子核物理学の研究を勧め、講師の湯川秀樹には量子力学の研究を勧め、欧米の第一線の科学者と競わせました。湯川秀樹の量子力学研究を庇護しましたが、量子力学の研究が先端的すぎて母校の京都帝国大学でも理解されなかったために、「阪大に入れて下さい」と八木に頼んだといわれています。
1935年9月25日、東北帝国大学官制の一部が改正され、附属電気通信研究所の設置が公布され、1936年からレーダの研究を指導することになり電気通信研究所の基盤を確立しました。
1942年 東京工業大学学長に就任しました。
1944年には内閣技術院総裁に就任しました。
1945年の4月の空襲で彼の研究資料は焼失してしまいました。
1946年には大阪帝国大学総長に就任しましたが、GHQの公職追放者指定を受けて辞職しました。
1946年には社会党結成に参加しました。
1951年に日本学士院会員に選ばれしました。
1952年占領が終わって日本は独立し八木アンテナ設立し、初代社長に就任しました。
1955年武蔵工業大学の学長に就任し、昭和三十五年まで尽力しました。
1956年に文化勲章を授与される。
1976年 勲一等旭日大綬章を受章 1月19日死去しました。
1995年にIEEE(米電気電子学会)によって八木・宇田アンテナ発明を顕彰するマイルストンが東北大学に設置されました。